プロ野球バカ一代

巨人背番号7は不幸を呼ぶ?巨人の歴代背番号7選手を振り返る

2018年シーズンオフ、球界を揺るがす衝撃のニュースが!

巨人の生え抜き看板スター選手の長野久義選手が、FAで獲得した丸佳浩選手の人的補償で、広島カープに移籍することになってしまいました。

長野久義選手の入団の経歴を知っている巨人ファンのみならず、プロ野球ファンが驚きの声をTwitterにアップしていましたね。

そんなまさかの事態に見舞われた長野久義選手の背番号は、巨人に入団した2010年以来、背番号「7」を背負っていました。

プロ野球界の都市伝説の一つで、「巨人背番号7は不吉な背番号」というものがあります。

巨人の歴代の背番号7の選手を振り返るとともに、その選手の身に降りかかった不幸と言いましょうか、災いについて紹介していきます。

巨人の背番号7の歴代選手は?

現在の日本プロ野球の礎となる「日本職業野球連盟」が結成された1936年から2018年オフまでの、巨人の歴代の背番号7の選手を紹介します。

選手名 期間
筒井修 ・1936~1937
・1941
山坂喜作 1946~1951途中
与那嶺要 1951途中~1960
高林恒夫 1961~1962
大橋勲 1963~1968
桑田武 1969
柴田勲 1970~1981
レジー・スミス 1983~1984
吉村禎章 1986~1998
二岡智宏 1999~2008
長野久義 2010~2018

私個人的にハッキリと記憶しているのは、吉村禎章さん以降で、3選手に降りかかった不幸は分かります。

不可抗力の事態、自業自得の事態もありますが、歴代の背番号7の選手のみに降りかかった災いを振り返ってみましょう。

吉村禎章さんまでの方々は、一挙に紹介しますね。

巨人の背番号7選手に起こった不幸【1936~1984】

巨人の初代背番号7の筒井修さんからレジー・スミスさんまでを振り返ってみましょう。

筒井修の場合

筒井修さんは、4番打者として巨人軍の初優勝にも貢献した打者でしたが、1942年に第二次世界大戦に召集され、左手に重傷(手榴弾の暴発で親指以外の指を失う)を負い選手生命を絶たれました。

それでも野球への情熱は熱く、審判員として歴代5位の3451試合に出場しています。

山本喜作の場合

第二次世界大戦後、巨人に移籍した山本喜作選手。

トレードなどの制度がしっかりとしていなかった当時、巨人が広島から有望な若手の樋笠一夫さんを引き抜いたことが大きな反感を買い、見返りとして山本喜作さんを広島に移籍させ、事実上のトレードとして成立させました。

与那嶺要の場合

戦後の日本プロ野球での初の外国人選手(父母ともにハワイ系日系2世のアメリカ国籍)である与那嶺要さん。

現役時代から川上哲治さんと首位打者を分け合うほどのライバルで、第二次巨人黄金期を支えましたが、川上哲治さんが巨人の監督になったオフに、戦力外となってしまいました。

その後、監督として中日を率いて川上哲治さん率いる巨人のV10を阻みました。

高林恒夫の場合

川上哲治監督に「高林が入ってきたんだから与那嶺は要らない」と言わしめるほどの実力者でしたが、巨人入団2年目が終了した1962年オフ、トレードで国鉄スワローズに移籍した。

大橋勲の場合

大物捕手として期待された大橋勲さんですが、森昌彦(森祇晶)さんの大きな壁に阻まれ正捕手の位置を掴めず、桑田武さんとのトレードで大洋ホエールズに移籍しましたが、大洋でも結局正捕手の座を奪えませんでした。

桑田武の場合

前述の大橋勲さんとのトレードで、1969年に大洋から巨人に移籍した桑田武さんでしが、巨人では怪我に苦しみ13試合の出場にとどまりたった1年で戦力外通告を受けました。

翌年の1970年はヤクルトに所属しましたが、黒い霧事件(オートレース八百長)の疑いで逮捕され、3ヶ月の出場停止処分を受けて、現役引退しました。

柴田勲の場合

1962年に巨人に入団した時は背番号12で、1970年から背番号7に変更した柴田勲さん。巨人のV9の中心で活躍して、2000本安打も達成し、順風満帆な現役生活を全うしました。

ところが、引退後の1992年に現金賭博の現行犯で逮捕されました。

レジー・スミスの場合

1983年に来日して巨人に入団したレジー・スミスさん。

1年目は優勝に貢献する活躍を見せましたが、2年目の1984年はウォーレン・クロマティさんの加入と自身の怪我で出場機会が激減しました。

さらに、同年8月に後楽園球場での試合前に阪神ファンと喧嘩(けんか)になり、暴行を加えたとして警察に連行されました(後日不起訴処分)。

巨人背番号7の吉村禎章に降りかかった災い

吉村禎章さんの災いは、かなり衝撃度の高いものですね。

非凡な打撃センスで当時の巨人の大きな期待を背負っていた吉村禎章さんですが、1988年7月6日「札幌円山球場」でのあの事故が…。

8回の守備でレフトの守備についていた吉村禎章さんは、センターの栄村忠弘さんとフライを追って激突して、病院に直行しました。

この時の怪我ですが…

〇左膝の靭帯4本あるうちの3本完全断裂
〇左膝の神経損傷
〇交通事故レベル
〇重度の障害者認定を受けるレベル
〇日本医療では手に負えない

アメリカでの2度の手術、そして1年以上のリハビリを経て、1989年9月に代打で復帰を果たし、主に代打要員として1998年まで現役を続けました。

当時の医療レベルとしては、現役として現場復帰できたことが奇跡と大きく取り上げられましたが、吉村禎章さんの素質から考えても「あの怪我がなければ…」と思うファンが非常に多いですね。

巨人背番号7の二岡智宏に降りかかった災い

2016年から2018年まで巨人の一軍打撃コーチとして現場にいた二岡智宏さん。2019年からはBCリーグの富山GRNサンダーバーズの監督に就任しましたね。

そんな二岡智宏さんに降りかかった災いは、自業自得なんですけどね…。

1998年ドラフト2位(1位は上原浩治投手)で巨人に入団し、1年目からショートで活躍し続け、謙虚な性格と甘いルックスから女性人気が非常に高かった二岡智宏さん。

順風満帆な現役生活でしたが、2008年に開幕直後に怪我で一軍登録抹消になり、離脱中の7月6日、山本モナさんとの不倫スキャンダルが発覚しました。

また、離脱中に坂本勇人選手にショートの定位置を奪われ、同年オフに日本ハムにトレードされました。

巨人の看板スター選手の不倫スキャンダルであり、選手会長も務めていただけに、このスキャンダルは当時、相当叩かれましたね。

特に、甲子園の阪神ファンからのヤジが痛烈でしたね…。

巨人の大物OBが「プロ野球選手が安い7000円のラブホテルに泊まるな」とコメントしたことが、個人的に私は感銘を受けたのを覚えています。

巨人背番号7の長野久義に降りかかった災い

長野久義選手と言えば、「巨人以外は入団しない」ことを公言してドラフトに臨んでいたことが有名ですね。

2006年ドラフト会議で日本ハムから4巡目で指名されましたが、巨人入りを熱望していたため入団を拒否し、本田技研(Honda)へ入社しました。

その2年後、2008年ドラフト会議でロッテから2巡目で指名されましたが、同じく入団拒否しました。

そして、2009年ドラフト会議で巨人から1位指名を受けてようやく巨人に入団を果たし、巨人愛を貫きました。

長野久義選手の巨人での応援歌の歌詞を見ても巨人愛が分かりますね。


一筋貫く 夢の弾道

飛ばせ長野 放て長野

オオオオオオ オイ

ここまで

1年目の2010年に新人王、2011年に首位打者、2012年に最多安打を獲得し、一気に巨人の看板スター選手となった長野久義選手。

ただ、2014年8月21日の守備で右膝を怪我して以降、低調なシーズンを過ごすことが多くなりましたが、入団以来9年連続100安打以上で、巨人では長嶋茂雄さん、原辰徳監督に次ぐ3人目の記録を達成し、さらに入団以来9年連続2ケタ本塁打も記録していました。

そんな、2度も他球団の入団を拒否して巨人に入団した生え抜き看板選手を、人的補償のプロテクトから外すとは…どの球団ファンも予想していませんでしたね。

2019年1月7日、FAで獲得していた丸佳浩選手の人的補償で、広島カープに移籍することになりました。

2019年1月現在に描いていますから、長野久義選手の現役生活はまだまだ続きます。

華々しい復活劇をここから見せて欲しいですね!

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まとめ

「巨人の背番号7は不吉な背番号である」というプロ野球ファンの中で有名な都市伝説を紹介しました。

その選手自身では避けることができないもの、自業自得のもの、その災いにも大小はありますが、何かしら起こっていることが分かりますね。

「7」と言えばいい数字としてとらえられていますが、どうやら巨人の背番号7だけは、そうでもないようです。

長野久義選手の次に、巨人の背番号7を背負うのは誰なのでしょうか?

いろんな意味で注目ですね。